12.24.2007

修士論文フレームワーク

事例は全部読んだし、分析も終わった。
さて、どうやってまとめようか。
ちょっと困っています。
あとは書ききるだけなんだけどな・・・。

以下、5部構成です。

  • トピック:「サイバースペース」か「ブログ」か
  • ネットカフェ難民ブログの機能について:承認、情報交換、ネットワーク、個人の創出
  • 先行研究の位置づけ:「新しい」新しい社会運動?
  • 仮説:仮説が成り立たない!?
  • 結論:サイバースペースの「構造」

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12.20.2007

outline of master thesis

I would like to write a memo about outline of my paper here.

Theme:
Emerging Social Movement on Cyberspace in Contemporary Japan
— Document Analysis on Weblogs by Net Café Refugees—

table of contents

1 イントロダクション
1.1 研究目的と研究手法
1.2 日本のインターネットの状況:統計から見るインターネット(『情報通信白書2007』と『インターネット白書2007』――利用者数の変動と利用者の属性)
1.3 サイバースペース論×情報革命論
1.4 社会運動の新たな地平―「未発の社会運動」と後期近代における「主体」(新原道信、稲葉奈々子、Alain Touraine、Alberto Melucci)
2 先行研究――サイバースペースと社会運動
2.1 ヴァーチャル公共圏
2.2 資源動員論
2.3 ネットワーク理論
2.4 仮説と問題提起―日本における「未発の社会運動」とサイバースペースの相互影響
3 事例――サイバースペースでのネットカフェ難民たち
3.1 「ネットカフェ難民」とは――厚生労働省による調査/テレビ局によるドキュメンタリー/湯浅誠
3.2 サイバースペースでささやかれる声なき声――ウェブログ検討
3.2.1 事例1――「ネットカフェ難民」
3.2.2 事例2――「オカマ ネットカフェ難民 今 ワーキングプア 脱出生活記録」
3.2.3 事例3――「ミッドナイト・ホームレス・ブルー」
4 分析理論
4.1 Project Identity—Manuel Castells
4.2 Networked Individualism—Barry Wellman
4.3 Post Subculture—Kahn and Kellner
5 分析
5.1 事例1の内容分析
5.2 事例2の内容分析
5.3 事例3の内容分析
5.4 事例2の著者に対するインタビューの内容分析
5.5 <ネットワーク分布図(トラックバックと外部リンク)>
6 結論:分析結果より――未発の社会運動としてのネットカフェ難民
7 参考文献

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12.15.2007

review: 新原道信 「生という不治の病を生きるひと・聴くことの社会学・未発の社会運動--A・メルッチの未発の社会理論」

新原先生の論文を読んだので、ちょっと忘れないようにメモ。

かなり重要なことに気づきました。

今までは、自分が研究に取り組む際に、自分の中で言語化できないモチベーションに基づいていたような気がします。それはどちらかというと、権力とか主体性といったものへの志向があったと思う。でも論文を書くという行為が果たしてどの程度この社会に影響を与えるのだろうという疑問は常に頭から離れなかった。

でも漠然とあったのは、「弱きもの」に対する共感だったと思う。誤解しないでほしいのは、「弱きもの」はある特定の社会集団(障害者や外国人、差別を受ける人々など)を指すのではなくて、例外なく「弱さ」を抱えている人間(Human Being)そのものである。でも、権力関係のなかでその弱さは封じ込められ、特定の社会的属性にその「弱さ」だけではなく、「異端/異常」のレッテルをベタッと貼り付ける。例えばニートとかフリーターとかね。

でも俺に言わせれば、それは「自分のことを棚に上げて・・・」のなんとやらなんだよ。あらゆる人が弱さやずるさや、苦悩を抱えているはずなのに、「自分は正しく/強い」っていうために、いわゆる「弱者」を生み出す、というか作っちゃうんじゃないかと思う。

それで「声」が問題になる。ちっちゃい存在、「弱い」とされてしまった存在、追い出されてしまった存在。こういう人たちの出す「声」はおおむね社会全体に届くことはめったにない。テレビとかを通して。あったとしても、それはスケープゴートとして取り扱われるか、「もっとダメなヤツらがいたぞ!」って仰々しくいわれるだけかどっちかだと思う。だから、「声」すら出したくないのもよくわかる。

でもさ。なめんなって思うんだよ。人のことバカにすんなって。多分できると思う。何かしらのきっかけがあれば、社会はもうちょっと生きやすくなる気がする。というか社会はもともと誰のものでもなく、みんなものであるはずだ。

そう。だから「声」をいかに聞くかが重要なんだと思う。つぶやき、ささやき、グチ、叫び。なんでもいい。感情が高ぶってしまったときに零れ落ちる言葉ほど、リアリティのあるものはないと思う。それは多分意味がある。ものすごい意味があることだと思う。

それをどのように「聴く」ことができるか。どのように組み立てることができるか。それこそ多様な人たちのあいだで。セッションしてひとつの音楽を作るのとおんなじように。それが「聴く」ということなんだと思う。聴き、受け入れ、自分を見直して、フィードバックする。そのループが何か、別の違うもの。ダイナミックかどうかはわからないけど、根深くて「芯」のように強いものができるんじゃないかと思う。

だから新原先生が言う「臨床の知」は大事なんだと思う。(でもサバルタン系はなんて言ってんだろ?)

以下書評 次ページに続く

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11.28.2007

修論用メモ

先行研究の部分がようやく終わりました。
もうちょっとやりたい部分もあったなぁ。

Literature Reviewと分析理論の境目がいまいちわからんですね。

これから読んでまとめたい学者さんたち:先行研究

プライオリティの高いものから・・・

  • Manuel Castells
  • Bary Wellman
  • Craig Calhoun
  • James Slevin
  • Tim Jordan

最後の二つはまあいいかな・・・。

事例

youtubeでネットカフェ難民についての動画のコメントとかも見てみる必要があるな。
2chとかはどうなんだろうか。

ブログについて

一つ目はおそらく一番早い時期にネットカフェ難民自身で運営されたブログだと思う。すでに終了済み。多くの投稿とコメントがある。二つ目はネトナミさんという難民の方のブログ。これも終了済みだけど、たくさんの投稿とコメントがある。

三つ目はネットカフェ難民のものではなくて、ホームレスの方によって書かれているんだけど、ネットカフェ難民について重要な示唆がいくつも含まれている。しかもネットカフェ難民だけじゃなくて、現代の貧困とかその他政治のことなど多岐に渡って、するどい洞察を加えている。

四つ目はこれ、
市民ジャーナリストで若年層野宿者問題に取り組んでいる。参与観察として、インタビューするにはいいかも・・・。

一つ目と二つ目がメインです。他にあるかなぁ・・・。

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07.5.2007

インターネットの存在意義

現在の日本のインターネットの普及率は日本の総人口の約7割に達しており、利用者は推計8,529万人にいるらしい(平成17年度 総務省調べ)。また一日の平均インターネット利用時間は3.7時間となっており、睡眠をのぞく一日の時間の約二割を占めている(平成16年度情報通信白書より)。またおよそ利用者の8割の人がパソコンを使ってWEBサイトを閲覧し、半分の人がEメールを利用している。また利用目的は趣味や娯楽、買い物や仕事の情報収集だったり、暇つぶしだったり、オンライントレードだったり、他人とコミュニケーションをとることだったり、情報の発信だったりする。

インターネットはこれほど日本の社会に定着し、生活の一部になりつつある。このような社会においてインターネットはいかなる存在なのか?この問いに答えるためには、「近代」という枠組みから考える必要があるのではないだろうか。なぜなら近代とはひとつのコンセプトであり、日本だけでなく世界のいたるところで行われた政治・経済・社会の一大プロジェクトの根幹をなしており、現代社会の重要な一側面を形成しているからである。つまり合理的な社会秩序を生み出すために、司法、教育、軍事、医療、福祉、保安、産業などの様々な社会システムが細分化し、人間もその一端を担うことが求められたことによって、システムと人間との間に重大な摩擦が生じているからである。
例えば市場経済は人間に労働者であることを強いる。さらに労働者は社会システムが健全に機能するように設計される。つまり「労働者は勤勉でなければならない」だとか「責任感が強く、忠誠心がなければならない」といった規範が生まれ労働者を労働者たらしめるのである。こういった規律化は労働の領域だけはなく、男とは、女とは、夫とは
、妻とは、父親とは、母親とはといったジェンダーの領域でも強く見られ、また教育においても、子どもが「社会に貢献できる国民」へと成長することが根本的な目的となっている。
しかし、事態は一層複雑である。

フランスの現代思想家であるジル・ドゥルーズは現代社会をこういった各領域ごとに設定されていた規範が、その領域を超えて社会のあらゆるところで要求され、人間は諸規範が複雑に絡み合った規範によって管理されることを特徴とする「管理社会」というモデルを提起した。その性質はグローバリゼーションの進展による急激な社会変動や構造改革などの規制緩和と福祉制度の削減によって顕著になってきているというのが通説である。つまりそれまで各領域において人々に求められてきたようないくつかの役割やルールといった規範は、それ以外の領域においても求められるようになったのである。例えば、労働者は労働以外の場所でも労働者であることを求められ、そしてそれは自分の所属している企業のためだけに行うのではなく、市場経済が中心の社会で生き抜くために必要とされる(課された仕事を効率的に処理するための計画力やスキルの向上、資格の取得など)。またそういった規範は今や子どもに求められ、小学校を入学する前から強いられるのである。または女性にとっての結婚する/しない、または子どもを産む/産まないという問題は家族の問題であったにも関わらず、特殊合計出生率の低下や超高齢化によって出産と人口の減少はもはや社会問題に拡大しつつある。と、同時に結婚できない、子どもを持てない理由として、共働きでないと生活を維持できない現在の若年労働者の現状が多く挙げられている現象は、「働く女性」と「母としての女性」という家族と労働の二つの領域から求められる規範が衝突し、板ばさみの状態であるともいえる。

管理社会はいわば規範の流動化にともなう、規範の焼き直しが行われ、その適用範囲が拡大した社会であるといえる。つまり価値観は多様になった分、不安が増大し、一方ではそれを修正、つまり管理するためにより強固な規範システムを作った社会像である。

こういった社会において、一般的な「自由の保障」という概念は完全に崩壊してしまったのではないだろうか。つまり努力するのも、それを怠るのも自由。だがこの社会で生き抜くためには努力を一時も怠ってはならないのだ。そして一回のミスも許さないような管理システムも構築され、さらに一方では重大な失敗を犯した場合においてもそれをサポートするような集合的なシステムは退廃してしまった。つまりは管理されるように生きなければ、この社会で「うまくやる」には精神的にも肉体的にも強い抑圧を受ける場所なのではないだろうか。そうだとするならば、価値観の多様化によって自由の保障も拡大されたと思いきや、実は個人で背負うには重過ぎるリスクをともなうのである。いわば「自由」を獲得した瞬間、我々は社会に首根っこをつかまれ、地面に押さえつけられてしまうのである。

さて、こうした現代社会においてインターネットはまったく別の空間である。少なくとも今のところ、インターネットにおいては我々はなりたい自分になれる。規制や取締り、法律が制定され始めているが、まだまだ言いたいことを言えるし、やりたいことを行える。少なくとも現実の世界よりも遥かに自由度の高い世界である。

この世界で人間は会ったことも見たこともないが、会いたかったような人間に会うこともできる。または同じ意見や、同じ価値観、同じ夢を抱く仲間を見つけたりコミュニティに入ることもできる。ここにはまだ夢を持つ自由があり、それを自由に語り合うことが許される。こうした異なる境遇や価値観を持つ多様な人々が集い、自由に語ることができる空間は非常に貴重な空間となってしまったのである。

インターネット、より厳密には人々が集い対話を通した相互交流が行われる「バーチャル・コミュニティ」において、人々は相互に自分の中の多様な可能性を発見しながら、新しい自分へと変化していくことができる。そしてそれを現実世界の中に持ち込み、現実世界の環境そのものを変化させていくパワーを作っていく可能性もあるのではないだろうか。

これまで述べてきたように、インターネットの存在意義とは、単なる通信技術や経済活動の道具などではない。近代が持っている管理権力が支配する社会から投影される、自由な言論と自由な自己を創出していくことのできる、多元でダイナミックな相互交流の場であるということではないだろうか。

総務省報道資料 平成17年「通信利用動向調査」の結果
http://www.soumu.go.jp/s-news/2006/060519_1.html
平成16年版 情報通信白書「(4)日常生活に拡がるインターネットの活用」
http://www.johotsusintokei.soumu.go.jp/whitepaper/ja/h16/

06.10.2007

[講演会] インターネット会議:情報社会とは

先日、東京日仏学院で行われた講演会に行ってきました。

タイトルは「情報社会とは」。

ゲストはアルマン・マトラール(ArmandMattelart)と西垣通。

議論の骨子としては、まず「情報」をcommunicationにおける「信号」であると定義し、人類の歴史はつねに情報を交換する歴史であったということろからスタートした。

しかし現代とそれ以前で決定的に違うのは、交換される情報の量や質、交換されるプロセスである。インターネットはそういった意味では、社会の基盤となるファクターを情報とするのに十分だったという位置づけである。しかし、一方では現代を情報社会だとする考え方に批判的なアプローチもある。

マトラール氏によると、情報社会という言葉が圧倒的に広まったことに関して、「情報」と「社会」という二つの言葉の間にある結びつきに対する考察を欠いているケースが非常に多いことを指摘している。つまり、石油ショックや金融の自由化、冷戦の終結による国際関係の激変、そしてグローバリゼーションといった社会状況への分析なくして、情報社会というものの見方は成立し得ないという意見である。

特に注意すべき点は、情報社会、または情報化社会という概念自体が、「この世界をもっと素晴らしいものにするはずである」といったユートピア主義を含んでいるとマトラール氏は示唆している。しかし、次第に浮き彫りとなっていったデジタル・デバイドは深刻な様相をひめており、OECDやG8、国連、世界銀行や各国の政府において、ようやくこの問題が認識され、様々な政策が検討されている。

しかし結局こういった政策のほとんどは近代性の復活、つまり社会は右肩上がりに成長していくはずであり、技術はその原動力であるといった概念を含んでおり、そこから生み出されるリスクに対する考慮と、市民的なコンセンサスを取り入れる段階には至っていないという。

またもう一方ではインターネットや情報技術の発達によって、ますます監視社会の側面が強化されていることに対してもマトラール氏は警鐘をならしている。つまり銀行のキャッシュシステムやクレジットカードの決済システム、航空チケットの予約システムなど、日常生活で使われている多くのデバイスにおいて、個人の行動・思想を監視できうる技術が使われており、9.11以降のアメリカにおける国内の監視強化は実際にこうした監視機能が実行性を持っているということを証明しているという。

またもう一つの問題として、グローバリゼーションによって格差が拡大していく中で、格差そのものが人間自身を疎外している時代に突入しているのではという疑問も呈している。つまりインターネット、特にWorldWideWebは「開かれた社会」というミッションに基づいてはいたが、いつの間にか「アクセスできる者」とそうでない者を分離し、排除していくプロセスを持っているのである。言い換えてみれば、ある意味でインターネットは閉鎖的な世界なのではないだろうか。

またネットが反権力の作用、権力の分散化の力を持っているのと同時に、権力の強化や集中化が起こっているのも事実である。例えば検索エンジンは現在のネット世界において、最も権力を保持したシステムであると言える。さらにこのシステムは一部の巨大企業とその集まりによって生み出され、それに連なるように広告やその他の企業のシステムがぶら下がっている。数年前は素人でも簡単に構築できたテキストだけで構成されていたサイトはすでに影を潜め、限られたプロフェッショナルでなければ扱えないような洗練されたものが、やはり優れたサイトであるかのようである。この傾向はネット世界がより閉鎖的かつ集中化している一つの例であると言えるだろうとマトラール氏は述べている。

そして、本当にネットにおける民主化があるとすれば、知識を提供する側とされる側との間に何らかの変化がなければならないとマトラール氏は提案している。

以上の議論からもわかるように、「情報社会」という言葉自体が、実はもっと個別具体的なものであり、決してユートピア主義のように、一般的に語られるべきではないのだというのがマトラール氏の主張である。

コメント

私は上記のマトラール氏の話に概ね賛成である。

特に世界情報サミットやOECDなどの国際機関や各国の政府が

取り組んでいることに対する分析は、単なる政策分析でなく

グローバル化の性格や近代性と重ね合わせた意味深いものになっていると思う。

しかしネットそのものが本質的に悪ではなく、

一元的なユートピア主義が問題の所在を隠蔽しているとするならば、

その隠蔽を暴露する仕掛けとして、やはりネットは重要なファクターになるのではないかと思った。

つまりネットそのものが悪なのではなく、それを使う側の問題であり、

また条件や環境によってネットを通して出現してくるものが変わるのではないだろうか。

その点についての言及がもっと欲しかったと思う。

これはいわゆるネットに対する楽観主義と悲観主義の論争を超えて、

個別具体的な問題に対して、果たしてネットには何の意味があるのかを問うことでもある。

しかし私自身、ネットの可能性といったものを具体的に定義できるまでに至っていない。

情報社会論やサイバースペース論、CMC論からこのような可能性を探っていくことができたらと思う。

05.5.2007

記録

先日新原先生の院ゼミに参加しました。

非常に大きなインスピレーションを受けました。

やっぱり感じたことを残しておくことは大事ですね。

このブログも停滞気味ですが、もうちょっと定期的に書いていこうと思います。

備忘録としてですが。

まずはフィールドワークをなんとかしたいな。。。

先生が勧めてくれた本を読むことにする。

佐藤郁哉『フィールドワーク書を持って街へ出よう』、新曜社、増訂版(2006/12)¥2,310

アマゾン:
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4788504286/maromarodokus-22/ref=nosim

まろまろさんにもあった:
http://maromaro.com/archive/2003/10/31/1992_5.php

05.5.2007

short philosohpy on subject

オープンであること。

批判的であること。

共同的であること。

できるだけ楽しい未来や可能性を想像すること。

さらにできれば、一人でできることではなく、多数の人と一緒にならば

できるような可能性を想像すること。

想像したら動くこと。

とりあえず始めてみること。

よく考えてみること。

まわりをよく見てみること。

時に自分の足跡を振り返りながら

ふと自分の行きたい方向を改めて考えてみること。

でも深く考えすぎないこと。

一緒に食事をすることを大切にすること。

友人との語らいを大切にすること。

時に本気で衝突すること。

批判し、時に破壊すること。

破壊してもまた一緒に作ればいい。

枠を作らないこと。

自分の人生を既存の枠組みにあずけたり、まるで同一のものかのように思い込まないこと。

そのように責任転嫁して言い訳をしたり、恨み言を言わないこと。

もしあなたが前に進むことを、自分自身を大切にすることを拒否しているなら別だが。

気がついたら枠をはみ出てしまった。

でも気にしないこと。

失敗を気にしないこと。

一人になることを恐れないこと。

————————–

オープンであるということは、自分(あるいは自分たち)のテリトリーへ

招待することであり、彼(または彼ら)にコミットすることでもある。

いずれも能動的な働きかけで、受動的なものではない。

なぜなら、招かれる側は積極的に「招かれたい」と思っていても

実際に招かれるまでは、積極的、直接的に「招かれる」ような働きかけをすることは

現在の倫理的な問題のせいで、なかなか難しいことである。

しかし「招く」という行為は、招く側の意志の問題だけである。

もちろん、「招きたい相手」か「招きたくない相手」かということによって

招くかどうかを決めているのだから、招く側の意志の問題だけではないといえるだろう。

しかし、ここはあえて、仮に、招くものだとして考えてみる方法もあるのでは?

つまり招かなければ、招きたかったかどうかはわからないという考え方もあるから

まずは「招くものなのだ」と前提にしてみるのである。

こちらにはいつでも招く用意があるんだよということを

見せることで、他者はいつでも気軽に玄関の戸を叩くことができる。

実際にそこで素晴らしいパーティが行われるかどうかはわからない。

悲惨な結末になるかもしれない。

が、それも結局招いてみなければわからないことだし

招いた結果そのものよりも、それをどう解釈するかが問題であり、収穫なのではないだろうか?

つまり「招く」とは私と彼らの間に橋を渡すことであり

ある種のつながりを作るきっかけを作ることでもある。

そのつながりは、私に新たな批判を与え、違う観点を提示し、

よりアクティブになろうとする私を後押ししてくれるものでもある。

そのある種のつながりとは、自己と他者の有機的でフレキシブルな関係性であり

共感や批判を共有するものである。

「私とは決して相容れない」あるいは、「あなたはあなた、私は私」といった

断絶したつながり(断絶もつながりの一種の状況である)ではなく

まるで私自身と他者との境界線が不明瞭になり、どこまでが肉体で

どこからが想像の私で、どこからが触れることのできる他者でといった

「区別」そのものが意味を持たなくなるような関係性のことである。

なぜなら、私自身が彼に開かれ、彼が私に対して開かれている状態で

かつ、両者が批判的に互いを、そして自己を見つめ返していくと

まるで合わせ鏡のように、無限に「相手の中にいる私、の中にいる相手、の中にいる私、の中にいる・・・」

といった関係が生まれるからである。

それはすでに、私が他者を私のように大切に扱いたいという認識を作り出すとともに、

私が私を他者のように大切に扱いたいという認識が生まれるのでは?

そしてそれが双方向に向かっているのならば、

私と彼ら自身は、もともとは別個の存在で相違点を十分に持っているという意味での境界線は有効ではあっても、

両者の境界線はすでに境界線としては意味を持たない。

オープンであることとは、境界線を積極的に飛び越えようとする態度のことであり

積極的に飛び越えたほうが、おそらく楽しいんじゃないかという予感が

そうさせるのではないだろうか?

批判的でない状態は非常に退屈である。(時に退屈さ自体が批判的である場合もあるが)

なぜ、どうして、どこで、いつ、だれが、どんなふうに?

「え?」、「え?」と繰り返して問い直すことによって

次々と違ったパースペクティブ、違ったものの見方、違った理解が生まれる。

撮りたい対象に徐々にフォーカスを合わせていき、次第に輪郭が鮮明になる。

時に焦点を通り過ぎて背景にフォーカスが合わさるときもある。

この焦点の前後、手前から奥へと向かう一連の動作を批判とたとえるとするならば、

ある瞬間フラッシュがたかれる。

目の前がパッと真っ白になり、対象が鮮やかに見えてくる。

これが批判の効果なのでは?

つまり、この批判の作業を繰り返すことによって私の身の回りで起こっている何気ないこと、

時に何気ない暴力、時に何気ない幸福のなかにもっと深いおぞましさや

代え難い人生の意味を見出すことができるのでは?

もしそうならば、批判は一つの配慮のプロセスなのでは?

一つずつモノゴトの価値や見方を相対化していくことによって

「本当のところはどうなのか?」という問いは次第に真理へと近づいていくのでは?

真理自体があるどうか、また真理とはいったい何かということは別にして

ただ、それらしいものへ近づいていくことはあっても、遠ざかることはない。

もし私自身の存在意義を、私の家族、私の友人、私の同僚の中に位置づけるとするならば

彼らがどのような状況に置かれ、どのような問題をはらんでいるのかを考える、

少なくとも批判的に考えることによって、彼らの助けになるのではないか?

つまり、批判は実際このような取り組みの前提となるのでは?

逆に言うと、私の存在意義は私だけでは成立せず、また彼らだけでも成立せず

この両者が対、というよりも、不明瞭な境界線をまたがるような形で存在することにあり、

それは批判によってしかなりえない、ということでもある。

一人になるということは、一人でやるということだ。

一人でやるということは、自分のやったものが自分にダイレクトに返ってくるということだ。

その返ってきたものは、等身大の自分自身である。

ときには厳しい現実を知らしめるものである。

何事かにチャレンジするということは、あくまでも自分の意志で行うものであり

他人の顔色をうかがうものではない。

やりたければやる、というシンプルな理屈は

やったあとの結果よりも、「やりたい」という意志を尊重する考え方のように聞こえる。

実際結果が失敗だろうと、成功だろうと、それはあくまでも

ある一定の基準からみたモノの捉え方で、

違う角度から見たら、「やりたいことをやった」という意味では成功なのでは?

その意志を尊重する働きかけは、自分を大事にするということである。

自分を大事にするということは、ときに一人であることを恐れないことである。

むしろ一人になることを恐れずに、自分自身を尊重するがゆえに

自分の不完全さ、自分の弱さ、自分のダメさ加減を暴露し

助けを乞えばいいのでは?

これは失敗を恐れて他人に保険をかけてもらったり、言い訳をするのとは違った意味合いがある。

またオープンかつ批判的で、共同的な関係において破壊はつきものなのではないだろうか?

なぜなら批判は常に破壊的であり、オープンさはそれを積極的に受け入れるからである。

しかし、両者の関係が共同的である以上、この破壊は共同で行うものである。

そして前向きにとらえるとすると、この破壊は何かの終焉であり、何かの始まりにもなりえる。

重要なのは、この始まりにどのようにかかわるのかということである。

当然、かかわらないこともできる。

しかし破壊は、時に自己破壊的な衝動をともなう。

それを相対化し、さまざまな観点を破壊された側に与えることによって

自己破壊ではなく、新たな目標にむけて前進していけるのではないだろうか。

それは破壊者の責任、というよりは倫理である。

言い換えれば、一緒に違う自己理解を探すために、破壊を行うのである。

最後に、、、。

完全を目指さないこと。

できるだけ積極的に完全になろうとしないこと。

常に不完全、常に端っこ、常に不良品で、常に不恰好だとしたらどうだろう?

もともと人間はそんなにうまくできていない。

できていないからこそ、他人がいる意味と自分がいる意味があるのでは?

互いにいびつだからこそ、ぶつかり傷つけあいながらも

接合点や吸着点があるのでは?

もし完全な球体ならつるつるすべってしまうだけでは?

いびつさを「いびつだ」と捉えるそのモノの見方は

すでに「いびつ」とは裏腹に「いびつでない」ということがありえるということを含んでいる。

それは「いびつでない」ということへの憧れなのか、あるいはそうはなれない自己への

コンプレックスなのか。

実際「いびつさ」は「そのまま」ということであり、「そのまま」ならば

それは不完全でも、不良品でも、不恰好でもない。

それは「そのまま」であり

外界に開かれ、コミュニケーションをとり続けることによって

角が丸くなったり、角が立ったりして、どんどん変化していく。

つまりその状態ではすでに「そのままである自分」を乗り越え

「変わり続けていく存在」という状態であり、

さらに「変わり続けていく自己と他者との不明瞭なつながりの総体(またはその一部)」であると言える

かもしれない。

この試みは現在の生きづらさを感じさせる社会への抵抗でもあり

自分自身(あるいは他者間のつながりの一端である自己)が納得して活き活きとしていくための試みでもある。

また同時に、社会自体をクリエイティブなものに、そして一人一人が自分の意味を自分(達)の頭と体で

つむぎだしていけるようなアクティブさを持てるように「変えていく」活動の試みでもある。

02.5.2007

article review: Wamsley, D. J., (2000) “Community, Place and Cyberspace”

I found the good article shows the approaces of social impact of cyberspace.

I take a memo here.

Main Argument:
Impact of cyberspace is not strong in the aspect of the community.
Reasons are that new urbanism, consumption, post-modernism and third-way,
which are the concepts of community studies has focused on,
insist on the locality and propinquity for a community.
The reason of changing of urban life by telecommunication technology (internet)

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01.24.2007

講演会:GLOCOM 「オープンイノベーション:単なる心のあり方から、価値創造への新方策への転換」

今日、六本木にある国際大学グローバルコミュニケーションセンター(GLOCOM)に行ってきました。

GLOCOMは1991年に、「情報社会に出現する新しい社会秩序の特性や問題点について研究を進める」 ために、国際大学に所属する研究機関の一つとして設立されました。先日書いたハワード・ラインゴールドも設立に一役買っていますし 日本のサイバースペース研究の草分け的な研究所の一つであると思います。

今回参加した講演会は企業と大学間におけるパートナーシップ・プロジェクトの一環として催されたものです。講演者はエリオット・E・マックスウェル(Elliot E. Maxwell)氏。元アメリカ合衆国商務長官特別顧問、ジョンズ・ホプキンス大学コミュニケーションプログラム・フェロー、ペンシルバニア州立大学eビジネス研究センター特別研究員とのことです。テーマは「オープンイノベーション:単なる心のあり方から、価値創造への新方策への転換」でした。

概要は以下のとおり

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01.19.2007

The meaning of internet in the contemprary society: paper outline

Here is my framework of my paper.
I feel, it is not enough.
But I cannot understand what is lack.
Would you give some advices?

Topic: The meaning of internet in the contemprary society
Issue: theoretical arguments of social change and social impact
C.Q: Whether internet can change the society or not?
If it can do, how can intenet change the society?

#My stand point (assumption) to intenet

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01.10.2007

書評:ハワード・ラインゴールド バーチャルコミュニティ

本著はサイバースペース論におけるパイオニアのひとつとして、それ以後のサイバースペース研究においても必ず引用されるほどの影響を与えた本である。ラインゴールドは自らがオンラインコミュニティの形成に深く関わっており、本著はその経験に基づいてオンラインコミュニティの重要性や可能性、またはその条件について書かれている。しかし、本著は理論的なサポートをほとんど持っていないため、学術書としてよりは一般書として接するほうがベターである。しかしここで書かれている様々なアイデアはサイバースペース研究の根幹部分のひとつにもなっているため、一読する価値はあるだろう。

ラインゴールドによると、バーチャルコミュニティが形成されるひとつの仮説として、実生活でのインフォーマルに交流できる場所が消えつつあるからだという。一方でバーチャルコミュニティを新たな公共圏と考える地平が開けてくる。するとその条件や、根本的になぜ公共圏が重要なのかをとう必要性が出てくる。例えば、匿名性の問題、誹謗・中傷などの行為の規制の問題、デジタル・デバイドの問題を克服しなければ、バーチャルコミュニティは公共圏的な、言い換えれば民主主義的な空間として成り立つのは非常に難しいのではないか。

ラインゴールドが例に出しているWELLやコアラといったバーチャルコミュニティがなぜ形成しえて、現在のサイバースペースではそれが難しい(とするならば)、その違いはなんであろうか。例えば、技術に精通したものだけがアクセスしていた、またはアクセスするユーザーたちは比較的教養が深い人々だった、またはカウンターカルチャーというひとつの文化、価値観を共有していたなどの理由が考えられる。

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11.5.2006

なぜ公共圏を勉強するか:公共圏の衰退とインターネット (public sphere and the Internet)

僕は大学で「政治社会勉強会」という勉強会で「公共圏」について学んでいます。

最近いろんなことがあって、「なんで公共圏を勉強してるんだ??」と忘れてしまいそうになったので改めて公共圏を自分の研究の中に位置づけてみようと思いました。以下駄文ですが興味ある方はどうぞ。

公共圏とは主にハーバマスによって概念化されたひとつ社会的な領域のモデルである。ハバーマスらは公共圏を、「みんなが関わることがらを決める領域」であるとして定義している。具体的には中世のヨーロッパのサロンの研究を通して、ブルジョワ層の人々が国家権力からは独立して政治や文学の議論を行い、ある一定の社会空間を形成したということを説明している。ハーバマスによれば、公共圏は誰にでも公開されていることや、理性に基づいた議論が特徴であるという。

ハーバマスによる公共圏研究の意義は市民社会の原型として公共圏をモデル化したことや、公共圏の議会政治への発展、資本主義社会への移行を説明したことである。またジャーナリズムの起源も、ブルジョワ階級が経済活動のためにヨーロッパ各地の社会状況を把握するために発展してきたという経緯を踏まえていることからも、公共圏はジャーナリズムとのつながりも非常に深い。

以後公共圏研究は多岐にわたり、ハーバマスが提唱した公共圏モデルは主にブルジョワ型公共圏として議論されるようになった。現在ではこのモデルの特徴をベースにしながらもフェミニズムやカウンターカルチャーなどの社会運動的における公共圏(いわばライフ・ポリティクス)の形成やマスメディアによる公共圏の形成・拡大、またはグローバリゼーションにともなう市民的公共圏の衰退について研究されている。特に最後に挙げた衰退論については、社会の個人化・断片化によって公共圏が形成されにくくなっているというのが一般的な説である。その原因についてはリスクの増大、自己責任の増大、コミュニケーションの消費化、(物事に関わろうとするような)主体性の衰退などが挙げられている。

そしてサイバースペース研究においても公共圏は重要なオブジェクトとして研究されている。僕はサイバースペース研究における公共圏をとりあつかうことの意義は、インターネットという領域では、現実の権力や規制、社会構造とは相対的に独立して、自由に市民的な連帯を形成することができる可能性を持っているということであると感じる。

しかしそこでは匿名性の問題や、身体の不在、それにともなう倫理の重要性などが問題になってくるのではないだろうか。

そして実際は現実の社会をどのような意識で生活しているか、他者とどのように関わっているのか、あるいは関わっていきたいのかという意識がネットにおけるコミュニケーションにも影響を与えるだろう。また同時にネットでの公共圏はおそらく現実社会にもなんらかの影響力を持っているはずではなかろうか。そうすると現実社会で公共圏がどのように形成されているのか、または衰退しているのかを研究する重要性は十分にあると考えられる。