インターネットの存在意義
現在の日本のインターネットの普及率は日本の総人口の約7割に達しており、利用者は推計8,529万人にいるらしい(平成17年度 総務省調べ)。また一日の平均インターネット利用時間は3.7時間となっており、睡眠をのぞく一日の時間の約二割を占めている(平成16年度情報通信白書より)。またおよそ利用者の8割の人がパソコンを使ってWEBサイトを閲覧し、半分の人がEメールを利用している。また利用目的は趣味や娯楽、買い物や仕事の情報収集だったり、暇つぶしだったり、オンライントレードだったり、他人とコミュニケーションをとることだったり、情報の発信だったりする。
インターネットはこれほど日本の社会に定着し、生活の一部になりつつある。このような社会においてインターネットはいかなる存在なのか?この問いに答えるためには、「近代」という枠組みから考える必要があるのではないだろうか。なぜなら近代とはひとつのコンセプトであり、日本だけでなく世界のいたるところで行われた政治・経済・社会の一大プロジェクトの根幹をなしており、現代社会の重要な一側面を形成しているからである。つまり合理的な社会秩序を生み出すために、司法、教育、軍事、医療、福祉、保安、産業などの様々な社会システムが細分化し、人間もその一端を担うことが求められたことによって、システムと人間との間に重大な摩擦が生じているからである。
例えば市場経済は人間に労働者であることを強いる。さらに労働者は社会システムが健全に機能するように設計される。つまり「労働者は勤勉でなければならない」だとか「責任感が強く、忠誠心がなければならない」といった規範が生まれ労働者を労働者たらしめるのである。こういった規律化は労働の領域だけはなく、男とは、女とは、夫とは
、妻とは、父親とは、母親とはといったジェンダーの領域でも強く見られ、また教育においても、子どもが「社会に貢献できる国民」へと成長することが根本的な目的となっている。
しかし、事態は一層複雑である。
フランスの現代思想家であるジル・ドゥルーズは現代社会をこういった各領域ごとに設定されていた規範が、その領域を超えて社会のあらゆるところで要求され、人間は諸規範が複雑に絡み合った規範によって管理されることを特徴とする「管理社会」というモデルを提起した。その性質はグローバリゼーションの進展による急激な社会変動や構造改革などの規制緩和と福祉制度の削減によって顕著になってきているというのが通説である。つまりそれまで各領域において人々に求められてきたようないくつかの役割やルールといった規範は、それ以外の領域においても求められるようになったのである。例えば、労働者は労働以外の場所でも労働者であることを求められ、そしてそれは自分の所属している企業のためだけに行うのではなく、市場経済が中心の社会で生き抜くために必要とされる(課された仕事を効率的に処理するための計画力やスキルの向上、資格の取得など)。またそういった規範は今や子どもに求められ、小学校を入学する前から強いられるのである。または女性にとっての結婚する/しない、または子どもを産む/産まないという問題は家族の問題であったにも関わらず、特殊合計出生率の低下や超高齢化によって出産と人口の減少はもはや社会問題に拡大しつつある。と、同時に結婚できない、子どもを持てない理由として、共働きでないと生活を維持できない現在の若年労働者の現状が多く挙げられている現象は、「働く女性」と「母としての女性」という家族と労働の二つの領域から求められる規範が衝突し、板ばさみの状態であるともいえる。
管理社会はいわば規範の流動化にともなう、規範の焼き直しが行われ、その適用範囲が拡大した社会であるといえる。つまり価値観は多様になった分、不安が増大し、一方ではそれを修正、つまり管理するためにより強固な規範システムを作った社会像である。
こういった社会において、一般的な「自由の保障」という概念は完全に崩壊してしまったのではないだろうか。つまり努力するのも、それを怠るのも自由。だがこの社会で生き抜くためには努力を一時も怠ってはならないのだ。そして一回のミスも許さないような管理システムも構築され、さらに一方では重大な失敗を犯した場合においてもそれをサポートするような集合的なシステムは退廃してしまった。つまりは管理されるように生きなければ、この社会で「うまくやる」には精神的にも肉体的にも強い抑圧を受ける場所なのではないだろうか。そうだとするならば、価値観の多様化によって自由の保障も拡大されたと思いきや、実は個人で背負うには重過ぎるリスクをともなうのである。いわば「自由」を獲得した瞬間、我々は社会に首根っこをつかまれ、地面に押さえつけられてしまうのである。
さて、こうした現代社会においてインターネットはまったく別の空間である。少なくとも今のところ、インターネットにおいては我々はなりたい自分になれる。規制や取締り、法律が制定され始めているが、まだまだ言いたいことを言えるし、やりたいことを行える。少なくとも現実の世界よりも遥かに自由度の高い世界である。
この世界で人間は会ったことも見たこともないが、会いたかったような人間に会うこともできる。または同じ意見や、同じ価値観、同じ夢を抱く仲間を見つけたりコミュニティに入ることもできる。ここにはまだ夢を持つ自由があり、それを自由に語り合うことが許される。こうした異なる境遇や価値観を持つ多様な人々が集い、自由に語ることができる空間は非常に貴重な空間となってしまったのである。
インターネット、より厳密には人々が集い対話を通した相互交流が行われる「バーチャル・コミュニティ」において、人々は相互に自分の中の多様な可能性を発見しながら、新しい自分へと変化していくことができる。そしてそれを現実世界の中に持ち込み、現実世界の環境そのものを変化させていくパワーを作っていく可能性もあるのではないだろうか。
これまで述べてきたように、インターネットの存在意義とは、単なる通信技術や経済活動の道具などではない。近代が持っている管理権力が支配する社会から投影される、自由な言論と自由な自己を創出していくことのできる、多元でダイナミックな相互交流の場であるということではないだろうか。
総務省報道資料 平成17年「通信利用動向調査」の結果
http://www.soumu.go.jp/s-news/2006/060519_1.html
平成16年版 情報通信白書「(4)日常生活に拡がるインターネットの活用」
http://www.johotsusintokei.soumu.go.jp/whitepaper/ja/h16/
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