07.20.2007

[書評] フィールドワーク: 書を持って街へ出よう(増訂版); 佐藤郁哉

この本はゼミで紹介され、読んでみようと思いました。これまできちんといわゆる「研究方法」について考えたことがなかったけど学部時代にきちんとやっておけば、、、といまさら後悔しています。

社会学や政治学などの社会科学において主流になっている調査方法、分析方法はいわゆる「定量メソッド」と言われるものでデータを数値化し、統計学的な手法によって分析をする方法です。しかし、一方でブロニスラフ・マリノフスキー(『西太平洋の遠洋航海者』を書いた人、いつか読まなきゃ。。。)がいわゆる「フィールドワーク」のメルクマールとなり実際に社会生活のなかに入り込むことによって数値化することが難しく、一回限りのアンケートなどではわからないような「文化」に迫りうる研究手法としてフィールドワークが台頭してきました。

アメリカのシカゴ学派はこうしたフィールドワークを人類学だけでなく社会学に取り入れ、数々の名著を生み出してます。(例えば、ウイリアム・ホワイト『ストリート・コーナー・ソサイエティ』など。これも読んでみたい)

このように、本書は現代の社会科学における研究手法の歴史的な変遷やそもそもなぜフィールドワークが重要なのか、フィールドワークをするのかといった問いに答えていきます。

そして重要なのは、定量的方法とか定性的方法(フィールドワークのような質的調査法)のどちらが優れているのかについて固執するではなく、互いに長所・短所があることを認めたうえで両方の方法論を取り入れることであると言っています。(いわゆる「トライアンギュレーション」)

例えば、インタビューで個別具体的で、より深みのあるデータを収集しより一般的なことがらを説明するために補助的にアンケートなどで自分の議論をサポートする。あるいは、定量メソッドを中心に研究を進めるが自分の仮説に最も適合している数例に関しては
インタビューを行うなど、など。しかし、恥ずかしながらも、私がこれまで勘違いしていたな、と思うことはアンケート  ≠ フィールドワーク かつ、インタビュー ≠ フィールドワークということでした。かなり厳密に言うと参与観察 = フィールドワーク ≠1,2回のアンケートということ。

つまりマリノフスキーやフランスの人類学者レヴィ・ストロースが行ったフィールドワークはいわば参与観察であり、参与観察とは、社会生活への参加をしながら直接観察や聞き取りを行う調査手法であるといえます(佐藤:161)。つまり長い年月(短くて1年、長くて10年以上)を対象者と生活する(行動する)ことによって、初めて定量メソッドでは見えてこない社会的文脈が見えてくるということです。

これはかなり大変なことです。

佐藤さんこう語っています。

「もっとも、よく考えてみると、これ[モノグラフを書くこと=観察した結果を報告すること]はどだい無謀で、ある意味では非常に傲慢な試みだともいえます。たとえ対象を一つにしぼったとしても、はたして実在の社会を対象にしてモノグラフなど書けるでしょうか。・・・中略・・・、たかだか数年の調査でせいぜい数百ページの本にまとめようというのです。しかも、こういう大それたことをしようとしているのは、その土地の人から見ればまったくのよそ者であるフィールドワーカーなのです。こうしてみると、モノグラフというのは、傲慢なだけではなく、非常に僭越な試みだともいえそうです」(p.201)

果たして半年、いや、ひと夏ほど時間をかけてNPOなどに参加したからといってフィールドワークといえるのか。2,3回、インタビューをしたからといって、それで調査になるのか。一気に不安になってしまいます。が、やるしかない。できることのなかで、やるしかないと思いましたが、それでもこのタイミングでこの本に会えてよかったと思います。

そのほかにも文献調査についてや「信頼性」と「妥当性」について、「事例研究の強み」について、仮説の立て方や理論や概念の使い方については大いに参考になりました。学部の1、2年のころに読んでおくのがベストだと思いますが、修士の私でさえ役に立っているのできちんと方法論を勉強したことのない人は必ず読んでおくべきだと思います。特に質的調査法で研究を進めようと思っている人には。

そして本書は15年前に出版されたものの増訂版ということで内容がかなり変わっているようです。特に第四部で取り扱われている、調査に必要なツールに関してはコンピュータ技術の発展と普及によってかなり新しくなっているようです。

最後にウンベルト・エーコの『論文作法』を合わせて読むともっと「研究とは何か」ということがはっきりすると思います!

以下はメモ書き

理論について
・実証主義:グランドセオリー;データによる総合理論の検証
・質的調査法:グランデッドセオリー;データからの理論の生成

概念について
・操作概念・限定概念:概念定義が明快にできるような条件をサーベイに盛り込み、概念を最初から限定する
・感受概念(sensitiveconcept):「研究のはじめにおおまかな方向性、つまり問題を検討する上での手がかりとなる「感受」の方向を示す概念であり、調査の進行にともない、概念規定そのものを練り上げていく(p.98)」=>ゆるやかな定義から細かい定義に狭めていく

事例研究について
実は、フィールドワークを通してより一般的な問題について調査ができる。調べられる事例の数は少ないが、対象を通して調べられる項目の数は多い(118-119)

信頼性と妥当性について
信頼性:誰がやっても同じ結果になる(客観性)
妥当性:その方法が実際にその対象の何かを適切に図っているかどうか(p.135)

*あるモノサシ(分析方法)が自分の知りたいことと全く別のことを計っていることもある=妥当な方法ではない

文献調査
1.理論書
2.先行研究
3.一般的資料
4.内部記録文書

1,2=>問題発見の方法(特に古典など)

07.5.2007

インターネットの存在意義

現在の日本のインターネットの普及率は日本の総人口の約7割に達しており、利用者は推計8,529万人にいるらしい(平成17年度 総務省調べ)。また一日の平均インターネット利用時間は3.7時間となっており、睡眠をのぞく一日の時間の約二割を占めている(平成16年度情報通信白書より)。またおよそ利用者の8割の人がパソコンを使ってWEBサイトを閲覧し、半分の人がEメールを利用している。また利用目的は趣味や娯楽、買い物や仕事の情報収集だったり、暇つぶしだったり、オンライントレードだったり、他人とコミュニケーションをとることだったり、情報の発信だったりする。

インターネットはこれほど日本の社会に定着し、生活の一部になりつつある。このような社会においてインターネットはいかなる存在なのか?この問いに答えるためには、「近代」という枠組みから考える必要があるのではないだろうか。なぜなら近代とはひとつのコンセプトであり、日本だけでなく世界のいたるところで行われた政治・経済・社会の一大プロジェクトの根幹をなしており、現代社会の重要な一側面を形成しているからである。つまり合理的な社会秩序を生み出すために、司法、教育、軍事、医療、福祉、保安、産業などの様々な社会システムが細分化し、人間もその一端を担うことが求められたことによって、システムと人間との間に重大な摩擦が生じているからである。
例えば市場経済は人間に労働者であることを強いる。さらに労働者は社会システムが健全に機能するように設計される。つまり「労働者は勤勉でなければならない」だとか「責任感が強く、忠誠心がなければならない」といった規範が生まれ労働者を労働者たらしめるのである。こういった規律化は労働の領域だけはなく、男とは、女とは、夫とは
、妻とは、父親とは、母親とはといったジェンダーの領域でも強く見られ、また教育においても、子どもが「社会に貢献できる国民」へと成長することが根本的な目的となっている。
しかし、事態は一層複雑である。

フランスの現代思想家であるジル・ドゥルーズは現代社会をこういった各領域ごとに設定されていた規範が、その領域を超えて社会のあらゆるところで要求され、人間は諸規範が複雑に絡み合った規範によって管理されることを特徴とする「管理社会」というモデルを提起した。その性質はグローバリゼーションの進展による急激な社会変動や構造改革などの規制緩和と福祉制度の削減によって顕著になってきているというのが通説である。つまりそれまで各領域において人々に求められてきたようないくつかの役割やルールといった規範は、それ以外の領域においても求められるようになったのである。例えば、労働者は労働以外の場所でも労働者であることを求められ、そしてそれは自分の所属している企業のためだけに行うのではなく、市場経済が中心の社会で生き抜くために必要とされる(課された仕事を効率的に処理するための計画力やスキルの向上、資格の取得など)。またそういった規範は今や子どもに求められ、小学校を入学する前から強いられるのである。または女性にとっての結婚する/しない、または子どもを産む/産まないという問題は家族の問題であったにも関わらず、特殊合計出生率の低下や超高齢化によって出産と人口の減少はもはや社会問題に拡大しつつある。と、同時に結婚できない、子どもを持てない理由として、共働きでないと生活を維持できない現在の若年労働者の現状が多く挙げられている現象は、「働く女性」と「母としての女性」という家族と労働の二つの領域から求められる規範が衝突し、板ばさみの状態であるともいえる。

管理社会はいわば規範の流動化にともなう、規範の焼き直しが行われ、その適用範囲が拡大した社会であるといえる。つまり価値観は多様になった分、不安が増大し、一方ではそれを修正、つまり管理するためにより強固な規範システムを作った社会像である。

こういった社会において、一般的な「自由の保障」という概念は完全に崩壊してしまったのではないだろうか。つまり努力するのも、それを怠るのも自由。だがこの社会で生き抜くためには努力を一時も怠ってはならないのだ。そして一回のミスも許さないような管理システムも構築され、さらに一方では重大な失敗を犯した場合においてもそれをサポートするような集合的なシステムは退廃してしまった。つまりは管理されるように生きなければ、この社会で「うまくやる」には精神的にも肉体的にも強い抑圧を受ける場所なのではないだろうか。そうだとするならば、価値観の多様化によって自由の保障も拡大されたと思いきや、実は個人で背負うには重過ぎるリスクをともなうのである。いわば「自由」を獲得した瞬間、我々は社会に首根っこをつかまれ、地面に押さえつけられてしまうのである。

さて、こうした現代社会においてインターネットはまったく別の空間である。少なくとも今のところ、インターネットにおいては我々はなりたい自分になれる。規制や取締り、法律が制定され始めているが、まだまだ言いたいことを言えるし、やりたいことを行える。少なくとも現実の世界よりも遥かに自由度の高い世界である。

この世界で人間は会ったことも見たこともないが、会いたかったような人間に会うこともできる。または同じ意見や、同じ価値観、同じ夢を抱く仲間を見つけたりコミュニティに入ることもできる。ここにはまだ夢を持つ自由があり、それを自由に語り合うことが許される。こうした異なる境遇や価値観を持つ多様な人々が集い、自由に語ることができる空間は非常に貴重な空間となってしまったのである。

インターネット、より厳密には人々が集い対話を通した相互交流が行われる「バーチャル・コミュニティ」において、人々は相互に自分の中の多様な可能性を発見しながら、新しい自分へと変化していくことができる。そしてそれを現実世界の中に持ち込み、現実世界の環境そのものを変化させていくパワーを作っていく可能性もあるのではないだろうか。

これまで述べてきたように、インターネットの存在意義とは、単なる通信技術や経済活動の道具などではない。近代が持っている管理権力が支配する社会から投影される、自由な言論と自由な自己を創出していくことのできる、多元でダイナミックな相互交流の場であるということではないだろうか。

総務省報道資料 平成17年「通信利用動向調査」の結果
http://www.soumu.go.jp/s-news/2006/060519_1.html
平成16年版 情報通信白書「(4)日常生活に拡がるインターネットの活用」
http://www.johotsusintokei.soumu.go.jp/whitepaper/ja/h16/