06.21.2007

一人ぼっちのキャンドルナイト

今日は夏至でした。

一年でいちばん昼の時間が短い日です。

近年、いくつかの市民団体が夏至の日の夜の数時間を

ロウソクだけで過ごそうというイベントをやっているようです。

この「100万人のキャンドルナイト」、というイベントは

エネルギー問題や地球温暖化などの環境問題への

意識を高めようという意味があるのですが

僕が少し感動したのは

「ロウソクのひかりで子どもに絵本を読んであげるのもいいでしょう。

しずかに恋人と食事をするのもいいでしょう。

ある人は省エネを、ある人は平和を、

ある人は世界のいろいろな場所で生きる人びとのことを思いながら。」

という文章。

確かにロウソクの優しい灯りに包まれて

大切な人と一緒に時間を過ごしたら

とても優しい気持ちになれそうな気がしました。

今年はどこかのイベントに行ってみようかな、と思ったけど

残念ながら一人で過ごすことになりそうです(笑)

100万人のキャンドルナイト

http://www.candle-night.org/home.html

06.20.2007

繭。

ふわふわしていて、しっとりしていて、中は暖かくて

外からは守られている、安心して眠れる場所。

それはお母さんのおなかの中に似ていて

この子は空っぽになって夢を見ている。

安心して眠ることができる。

お母さんと一体になったまま。

逃げていいんだよ。

ここはあなたが逃げていい場所だよ。

いつだって。

06.10.2007

[講演会] インターネット会議:情報社会とは

先日、東京日仏学院で行われた講演会に行ってきました。

タイトルは「情報社会とは」。

ゲストはアルマン・マトラール(ArmandMattelart)と西垣通。

議論の骨子としては、まず「情報」をcommunicationにおける「信号」であると定義し、人類の歴史はつねに情報を交換する歴史であったということろからスタートした。

しかし現代とそれ以前で決定的に違うのは、交換される情報の量や質、交換されるプロセスである。インターネットはそういった意味では、社会の基盤となるファクターを情報とするのに十分だったという位置づけである。しかし、一方では現代を情報社会だとする考え方に批判的なアプローチもある。

マトラール氏によると、情報社会という言葉が圧倒的に広まったことに関して、「情報」と「社会」という二つの言葉の間にある結びつきに対する考察を欠いているケースが非常に多いことを指摘している。つまり、石油ショックや金融の自由化、冷戦の終結による国際関係の激変、そしてグローバリゼーションといった社会状況への分析なくして、情報社会というものの見方は成立し得ないという意見である。

特に注意すべき点は、情報社会、または情報化社会という概念自体が、「この世界をもっと素晴らしいものにするはずである」といったユートピア主義を含んでいるとマトラール氏は示唆している。しかし、次第に浮き彫りとなっていったデジタル・デバイドは深刻な様相をひめており、OECDやG8、国連、世界銀行や各国の政府において、ようやくこの問題が認識され、様々な政策が検討されている。

しかし結局こういった政策のほとんどは近代性の復活、つまり社会は右肩上がりに成長していくはずであり、技術はその原動力であるといった概念を含んでおり、そこから生み出されるリスクに対する考慮と、市民的なコンセンサスを取り入れる段階には至っていないという。

またもう一方ではインターネットや情報技術の発達によって、ますます監視社会の側面が強化されていることに対してもマトラール氏は警鐘をならしている。つまり銀行のキャッシュシステムやクレジットカードの決済システム、航空チケットの予約システムなど、日常生活で使われている多くのデバイスにおいて、個人の行動・思想を監視できうる技術が使われており、9.11以降のアメリカにおける国内の監視強化は実際にこうした監視機能が実行性を持っているということを証明しているという。

またもう一つの問題として、グローバリゼーションによって格差が拡大していく中で、格差そのものが人間自身を疎外している時代に突入しているのではという疑問も呈している。つまりインターネット、特にWorldWideWebは「開かれた社会」というミッションに基づいてはいたが、いつの間にか「アクセスできる者」とそうでない者を分離し、排除していくプロセスを持っているのである。言い換えてみれば、ある意味でインターネットは閉鎖的な世界なのではないだろうか。

またネットが反権力の作用、権力の分散化の力を持っているのと同時に、権力の強化や集中化が起こっているのも事実である。例えば検索エンジンは現在のネット世界において、最も権力を保持したシステムであると言える。さらにこのシステムは一部の巨大企業とその集まりによって生み出され、それに連なるように広告やその他の企業のシステムがぶら下がっている。数年前は素人でも簡単に構築できたテキストだけで構成されていたサイトはすでに影を潜め、限られたプロフェッショナルでなければ扱えないような洗練されたものが、やはり優れたサイトであるかのようである。この傾向はネット世界がより閉鎖的かつ集中化している一つの例であると言えるだろうとマトラール氏は述べている。

そして、本当にネットにおける民主化があるとすれば、知識を提供する側とされる側との間に何らかの変化がなければならないとマトラール氏は提案している。

以上の議論からもわかるように、「情報社会」という言葉自体が、実はもっと個別具体的なものであり、決してユートピア主義のように、一般的に語られるべきではないのだというのがマトラール氏の主張である。

コメント

私は上記のマトラール氏の話に概ね賛成である。

特に世界情報サミットやOECDなどの国際機関や各国の政府が

取り組んでいることに対する分析は、単なる政策分析でなく

グローバル化の性格や近代性と重ね合わせた意味深いものになっていると思う。

しかしネットそのものが本質的に悪ではなく、

一元的なユートピア主義が問題の所在を隠蔽しているとするならば、

その隠蔽を暴露する仕掛けとして、やはりネットは重要なファクターになるのではないかと思った。

つまりネットそのものが悪なのではなく、それを使う側の問題であり、

また条件や環境によってネットを通して出現してくるものが変わるのではないだろうか。

その点についての言及がもっと欲しかったと思う。

これはいわゆるネットに対する楽観主義と悲観主義の論争を超えて、

個別具体的な問題に対して、果たしてネットには何の意味があるのかを問うことでもある。

しかし私自身、ネットの可能性といったものを具体的に定義できるまでに至っていない。

情報社会論やサイバースペース論、CMC論からこのような可能性を探っていくことができたらと思う。