review: 新原道信 「生という不治の病を生きるひと・聴くことの社会学・未発の社会運動--A・メルッチの未発の社会理論」
新原先生の論文を読んだので、ちょっと忘れないようにメモ。
かなり重要なことに気づきました。
今までは、自分が研究に取り組む際に、自分の中で言語化できないモチベーションに基づいていたような気がします。それはどちらかというと、権力とか主体性といったものへの志向があったと思う。でも論文を書くという行為が果たしてどの程度この社会に影響を与えるのだろうという疑問は常に頭から離れなかった。
でも漠然とあったのは、「弱きもの」に対する共感だったと思う。誤解しないでほしいのは、「弱きもの」はある特定の社会集団(障害者や外国人、差別を受ける人々など)を指すのではなくて、例外なく「弱さ」を抱えている人間(Human Being)そのものである。でも、権力関係のなかでその弱さは封じ込められ、特定の社会的属性にその「弱さ」だけではなく、「異端/異常」のレッテルをベタッと貼り付ける。例えばニートとかフリーターとかね。
でも俺に言わせれば、それは「自分のことを棚に上げて・・・」のなんとやらなんだよ。あらゆる人が弱さやずるさや、苦悩を抱えているはずなのに、「自分は正しく/強い」っていうために、いわゆる「弱者」を生み出す、というか作っちゃうんじゃないかと思う。
それで「声」が問題になる。ちっちゃい存在、「弱い」とされてしまった存在、追い出されてしまった存在。こういう人たちの出す「声」はおおむね社会全体に届くことはめったにない。テレビとかを通して。あったとしても、それはスケープゴートとして取り扱われるか、「もっとダメなヤツらがいたぞ!」って仰々しくいわれるだけかどっちかだと思う。だから、「声」すら出したくないのもよくわかる。
でもさ。なめんなって思うんだよ。人のことバカにすんなって。多分できると思う。何かしらのきっかけがあれば、社会はもうちょっと生きやすくなる気がする。というか社会はもともと誰のものでもなく、みんなものであるはずだ。
そう。だから「声」をいかに聞くかが重要なんだと思う。つぶやき、ささやき、グチ、叫び。なんでもいい。感情が高ぶってしまったときに零れ落ちる言葉ほど、リアリティのあるものはないと思う。それは多分意味がある。ものすごい意味があることだと思う。
それをどのように「聴く」ことができるか。どのように組み立てることができるか。それこそ多様な人たちのあいだで。セッションしてひとつの音楽を作るのとおんなじように。それが「聴く」ということなんだと思う。聴き、受け入れ、自分を見直して、フィードバックする。そのループが何か、別の違うもの。ダイナミックかどうかはわからないけど、根深くて「芯」のように強いものができるんじゃないかと思う。
だから新原先生が言う「臨床の知」は大事なんだと思う。(でもサバルタン系はなんて言ってんだろ?)
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