short philosohpy on subject
オープンであること。
批判的であること。
共同的であること。
できるだけ楽しい未来や可能性を想像すること。
さらにできれば、一人でできることではなく、多数の人と一緒にならば
できるような可能性を想像すること。
想像したら動くこと。
とりあえず始めてみること。
よく考えてみること。
まわりをよく見てみること。
時に自分の足跡を振り返りながら
ふと自分の行きたい方向を改めて考えてみること。
でも深く考えすぎないこと。
一緒に食事をすることを大切にすること。
友人との語らいを大切にすること。
時に本気で衝突すること。
批判し、時に破壊すること。
破壊してもまた一緒に作ればいい。
枠を作らないこと。
自分の人生を既存の枠組みにあずけたり、まるで同一のものかのように思い込まないこと。
そのように責任転嫁して言い訳をしたり、恨み言を言わないこと。
もしあなたが前に進むことを、自分自身を大切にすることを拒否しているなら別だが。
気がついたら枠をはみ出てしまった。
でも気にしないこと。
失敗を気にしないこと。
一人になることを恐れないこと。
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オープンであるということは、自分(あるいは自分たち)のテリトリーへ
招待することであり、彼(または彼ら)にコミットすることでもある。
いずれも能動的な働きかけで、受動的なものではない。
なぜなら、招かれる側は積極的に「招かれたい」と思っていても
実際に招かれるまでは、積極的、直接的に「招かれる」ような働きかけをすることは
現在の倫理的な問題のせいで、なかなか難しいことである。
しかし「招く」という行為は、招く側の意志の問題だけである。
もちろん、「招きたい相手」か「招きたくない相手」かということによって
招くかどうかを決めているのだから、招く側の意志の問題だけではないといえるだろう。
しかし、ここはあえて、仮に、招くものだとして考えてみる方法もあるのでは?
つまり招かなければ、招きたかったかどうかはわからないという考え方もあるから
まずは「招くものなのだ」と前提にしてみるのである。
こちらにはいつでも招く用意があるんだよということを
見せることで、他者はいつでも気軽に玄関の戸を叩くことができる。
実際にそこで素晴らしいパーティが行われるかどうかはわからない。
悲惨な結末になるかもしれない。
が、それも結局招いてみなければわからないことだし
招いた結果そのものよりも、それをどう解釈するかが問題であり、収穫なのではないだろうか?
つまり「招く」とは私と彼らの間に橋を渡すことであり
ある種のつながりを作るきっかけを作ることでもある。
そのつながりは、私に新たな批判を与え、違う観点を提示し、
よりアクティブになろうとする私を後押ししてくれるものでもある。
そのある種のつながりとは、自己と他者の有機的でフレキシブルな関係性であり
共感や批判を共有するものである。
「私とは決して相容れない」あるいは、「あなたはあなた、私は私」といった
断絶したつながり(断絶もつながりの一種の状況である)ではなく
まるで私自身と他者との境界線が不明瞭になり、どこまでが肉体で
どこからが想像の私で、どこからが触れることのできる他者でといった
「区別」そのものが意味を持たなくなるような関係性のことである。
なぜなら、私自身が彼に開かれ、彼が私に対して開かれている状態で
かつ、両者が批判的に互いを、そして自己を見つめ返していくと
まるで合わせ鏡のように、無限に「相手の中にいる私、の中にいる相手、の中にいる私、の中にいる・・・」
といった関係が生まれるからである。
それはすでに、私が他者を私のように大切に扱いたいという認識を作り出すとともに、
私が私を他者のように大切に扱いたいという認識が生まれるのでは?
そしてそれが双方向に向かっているのならば、
私と彼ら自身は、もともとは別個の存在で相違点を十分に持っているという意味での境界線は有効ではあっても、
両者の境界線はすでに境界線としては意味を持たない。
オープンであることとは、境界線を積極的に飛び越えようとする態度のことであり
積極的に飛び越えたほうが、おそらく楽しいんじゃないかという予感が
そうさせるのではないだろうか?
批判的でない状態は非常に退屈である。(時に退屈さ自体が批判的である場合もあるが)
なぜ、どうして、どこで、いつ、だれが、どんなふうに?
「え?」、「え?」と繰り返して問い直すことによって
次々と違ったパースペクティブ、違ったものの見方、違った理解が生まれる。
撮りたい対象に徐々にフォーカスを合わせていき、次第に輪郭が鮮明になる。
時に焦点を通り過ぎて背景にフォーカスが合わさるときもある。
この焦点の前後、手前から奥へと向かう一連の動作を批判とたとえるとするならば、
ある瞬間フラッシュがたかれる。
目の前がパッと真っ白になり、対象が鮮やかに見えてくる。
これが批判の効果なのでは?
つまり、この批判の作業を繰り返すことによって私の身の回りで起こっている何気ないこと、
時に何気ない暴力、時に何気ない幸福のなかにもっと深いおぞましさや
代え難い人生の意味を見出すことができるのでは?
もしそうならば、批判は一つの配慮のプロセスなのでは?
一つずつモノゴトの価値や見方を相対化していくことによって
「本当のところはどうなのか?」という問いは次第に真理へと近づいていくのでは?
真理自体があるどうか、また真理とはいったい何かということは別にして
ただ、それらしいものへ近づいていくことはあっても、遠ざかることはない。
もし私自身の存在意義を、私の家族、私の友人、私の同僚の中に位置づけるとするならば
彼らがどのような状況に置かれ、どのような問題をはらんでいるのかを考える、
少なくとも批判的に考えることによって、彼らの助けになるのではないか?
つまり、批判は実際このような取り組みの前提となるのでは?
逆に言うと、私の存在意義は私だけでは成立せず、また彼らだけでも成立せず
この両者が対、というよりも、不明瞭な境界線をまたがるような形で存在することにあり、
それは批判によってしかなりえない、ということでもある。
一人になるということは、一人でやるということだ。
一人でやるということは、自分のやったものが自分にダイレクトに返ってくるということだ。
その返ってきたものは、等身大の自分自身である。
ときには厳しい現実を知らしめるものである。
何事かにチャレンジするということは、あくまでも自分の意志で行うものであり
他人の顔色をうかがうものではない。
やりたければやる、というシンプルな理屈は
やったあとの結果よりも、「やりたい」という意志を尊重する考え方のように聞こえる。
実際結果が失敗だろうと、成功だろうと、それはあくまでも
ある一定の基準からみたモノの捉え方で、
違う角度から見たら、「やりたいことをやった」という意味では成功なのでは?
その意志を尊重する働きかけは、自分を大事にするということである。
自分を大事にするということは、ときに一人であることを恐れないことである。
むしろ一人になることを恐れずに、自分自身を尊重するがゆえに
自分の不完全さ、自分の弱さ、自分のダメさ加減を暴露し
助けを乞えばいいのでは?
これは失敗を恐れて他人に保険をかけてもらったり、言い訳をするのとは違った意味合いがある。
またオープンかつ批判的で、共同的な関係において破壊はつきものなのではないだろうか?
なぜなら批判は常に破壊的であり、オープンさはそれを積極的に受け入れるからである。
しかし、両者の関係が共同的である以上、この破壊は共同で行うものである。
そして前向きにとらえるとすると、この破壊は何かの終焉であり、何かの始まりにもなりえる。
重要なのは、この始まりにどのようにかかわるのかということである。
当然、かかわらないこともできる。
しかし破壊は、時に自己破壊的な衝動をともなう。
それを相対化し、さまざまな観点を破壊された側に与えることによって
自己破壊ではなく、新たな目標にむけて前進していけるのではないだろうか。
それは破壊者の責任、というよりは倫理である。
言い換えれば、一緒に違う自己理解を探すために、破壊を行うのである。
最後に、、、。
完全を目指さないこと。
できるだけ積極的に完全になろうとしないこと。
常に不完全、常に端っこ、常に不良品で、常に不恰好だとしたらどうだろう?
もともと人間はそんなにうまくできていない。
できていないからこそ、他人がいる意味と自分がいる意味があるのでは?
互いにいびつだからこそ、ぶつかり傷つけあいながらも
接合点や吸着点があるのでは?
もし完全な球体ならつるつるすべってしまうだけでは?
いびつさを「いびつだ」と捉えるそのモノの見方は
すでに「いびつ」とは裏腹に「いびつでない」ということがありえるということを含んでいる。
それは「いびつでない」ということへの憧れなのか、あるいはそうはなれない自己への
コンプレックスなのか。
実際「いびつさ」は「そのまま」ということであり、「そのまま」ならば
それは不完全でも、不良品でも、不恰好でもない。
それは「そのまま」であり
外界に開かれ、コミュニケーションをとり続けることによって
角が丸くなったり、角が立ったりして、どんどん変化していく。
つまりその状態ではすでに「そのままである自分」を乗り越え
「変わり続けていく存在」という状態であり、
さらに「変わり続けていく自己と他者との不明瞭なつながりの総体(またはその一部)」であると言える
かもしれない。
この試みは現在の生きづらさを感じさせる社会への抵抗でもあり
自分自身(あるいは他者間のつながりの一端である自己)が納得して活き活きとしていくための試みでもある。
また同時に、社会自体をクリエイティブなものに、そして一人一人が自分の意味を自分(達)の頭と体で
つむぎだしていけるようなアクティブさを持てるように「変えていく」活動の試みでもある。