11.15.2007

インターネットの意味/意義/強さ

ネットってなんだろうな。
ネットの強さってなんだろう。
俺は三つあると思う。

ひとつめ

「誰もが発信できる」

うん。

これはよく考えたらスゴイことだ。今までだったらモノを言うためにはなんらかの「権威」とか「地位」とかがないとできなかった。でも今なら、ジャーナリストじゃなくても、政治家じゃなくても、公に意見を言うことができる。誰だって。

「知ってもらう」というのは思った以上に大切ことなんじゃないかな。何かひとつのモノゴトに対して、100人いたら、100通りの解釈、価値観、考え方があるはずだ。みんなひとつとして同じものはない。この100通りの考え方を共有できるというのは、もっとすごいことだと思う。モノゴトをもっとよく見ることができるし、比べることができるし、考えることができるし、判断をくだすことができると思う。そのモノゴトってのは、別に政治とか、なんかかしこまった大きいものじゃなくてもいい。趣味のことだっていいし、夕飯の献立のことだっていいし、娘の成長日記だっていい。とにかくどんなに小さなことにでも「意味」はそこらじゅうに散らばっている。その意味はある人にとっては重大なきっかけを与えるかもしれない。他の人にとっては本当に些細なことであっても。ひとつのモノに対して、ひとつの見方しかできない社会よりも、ひとつのものに対して、100通りの見方を持っている社会のほうが、もっとタフで、粘り強くて、流動的で、臨機応変で、ダイナミックだと思う。それにそのほうが面白いし、クリエイティブだし、こんなに窮屈じゃなくて、みんなもっと生きやすい自由な社会になると思う。もちろんそのためには、自分とは違うモノの見方を拒絶するのではなく、「承認」することが必要だけど。それは決して「同意」することではなくてね。個として認める。

二つ目

つながる

これは一つ目よりももしかしたら、もっと画期的かもしれないけど
もっと意識しづらいものかもしれない。

インターネット = inter + net

ってことで「相互につながっているネットワーク」ということだよね。中央集権的な情報伝達システムではなくて、脱中心的な分散型情報伝達システム。岡部一明さんという方の「インターネット市民革命」という本によると、もともと軍事技術としてインターネットは作られたけど、「核戦争で中央司令部が破壊されても生き残りワークする情報伝達システム」というコンセプトが、実は「最高にアナーキー」な形態を表現してしまったとのこと。

その意味は中央集権型(またはヒエラルキー型)のコミュニケーションは、より少ないコミュニケーションできちんと(ルールにのっとって)モノゴトを伝えることを目的としているのに対して、分散型のコミュニケーションはより多くのコミュニケーションをとりながら、相互に足りない部分を補って、オリジナルよりもより複雑で高次元のモノを作ろうとするプロセスなのだそうだ。

もっと究極的に言うと自分と他者との境目がぼやけてきて、違いを持ちつつ、互いのリソース(情報・知識・能力・観点)を共有できるということだと思う。

例えば、どんな状態のことか?

士郎正宗の「攻殻機動隊」というマンガの二巻のなかで、主人公の荒巻素子が彼女の支援AIと興味深いやりとりをしている。

AI:ボクら支援AIは言語やOS、端末誤差はあっても基本的に既知宇宙(ネットワーク)の一つの存在です。端末ハードの数や距離は見た目上の現象にすぎません。

荒巻:ふむ。続けて。

AI:ヒト脳は通常連結しても融合せず独立し続けます。何かのプロジェクトを並列処理しても効率はあまり変化せず、出力が多様化します。

荒巻:あんた達の「個性」とは違うの?

AI:違います。ヒト脳アレイは基礎構造深部まで個性化しており融合を前提に設計されていないようです。ユーザー慣習に合わせていますが、「ボクら」は本当は「ボク」でより巨大なシステムの一部に過ぎません。

これはおそらく、コンピュータはまったく同じものを複製できるという点では真に個性的とはいえないが、ネットワーク化していることによって、ネットワークの先にぶらさがっている各ノードにアクセスすることができる、つまり個は総体の一部であり、同時に総体と同様の情報(リソース)を有しているという意味で、個は総体そのものであるということだと思う。ただ人間は真に「個性」を持っているので融合はできないが、そのぶん「ゆらぎ」や「あそび」が総体(この場合は社会)を刺激し、総体の動脈硬化(死滅)を防ぎ、ダイナミックに振る舞いをする存在であると考えられる(このヘンは第一巻を参照)。

実はこれをかなり似ていることを宮沢賢治は言っているのではないかと思う。
最後のフレーズが最も重要だと思う。と同時に一番好きなフレーズ。

わたくしといふ現象は
假定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといっしょに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち、その電燈は失はれ)

これらは二十二箇月の
過去とかんずる方角から
紙と鑛質インクをつらね
(すべてわたくしと明滅し
 みんなが同時に感ずるもの)
ここまでたもちつゞけられた
かげとひかりのひとくさりづつ
そのとほりの心象スケッチです

これらについて人や銀河や修羅や海膽は
宇宙塵をたべ、または空気や塩水を呼吸しながら
それぞれ新鮮な本体論もかんがへませうが
それらも畢竟こゝろのひとつの風物です
たゞたしかに記録されたこれらのけしきは
記録されたそのとほりのこのけしきで
それが虚無ならば虚無自身がこのとほりで
ある程度まではみんなに共通いたします
(すべてがわたくしの中のみんなであるやうに
 みんなのおのおののなかのすべてですから)

士郎正宗が宮沢賢治を意識しているかどうかはわからないけど、この二人の宇宙観はとても似ているように見える・・・。

話はもどって、最後にもう一つだけ、もっと現実的な例を。UNIX/Linux系のシステムにはSSH(Secure SHell)という技術がある。SSHとは、

ネットワークを介して別のコンピュータにログインしたり、遠隔地のマシンでコマンドを実行したり、他のマシンへファイルを移動したりするためプログラム。

sshとは 【Secure SHell】 - 意味・解説 : IT用語辞典より
http://e-words.jp/w/ssh.html

である。

主に、ログインIDとパスワード、鍵などを使って別のコンピュータにアクセスする。するとまるで自分のコンピュータを使っているかのように、接続先のコンピュータを使うことができる。このときに、ある意味で、コンピュータ間の区別/境界はなくなる。

そしてインターネット。厳密に言えばインターネットとWorld Wide Webは異なるものである。インターネットは厳密に言えば「TCP/IPプロトコルによって相互に通信が可能なネットワーク」と定義できるが、一方でWWW(World Wide Web)は異なるテキスト間をマークアップすることによって相互にリンク付けを可能とするHTML(Hyper Text Markup Language)で構成された、インターネットを経由してアクセスすることのできるwebサイト、またはwebサイトの集まりである。(ん?その意味ではwebサイトというのは、web状に広がったネットワークの中のサイト[場所]ということになるのかな?)

このすべての例に共通するのは「つながる」ということである。つまり、個そのものでは欠陥やリソース(情報・知識・能力)の欠乏があるが、他とつながることによって補完される。一方総体である「ネット」または「ウェブ」(または「宇宙」)は、こうしたダイナミックな個の複雑なコミュニケーションによって成り立っているため、決して静的ではなく、潜在的に常に変化していく可能性を持っている。人間は物理的な限界(特に時間や空間)のためにコミュニケーションできる範囲が限られている。でもインターネットはこの限界を突き破って、情報・知識レベルでの「ネットワーク」を可能にしたと思う(肉体や能力レベルではなく)。

三つ目は

空間を作る

ってことだと思う。

つまり②で言った「つながり」は決して流動的で壊れ続けるものではなく、時として恒常的なコミュニケーションによってコミュニケーション空間が形成される。つまりオンラインコミュニティだったり、掲示板だったり、ブログだったり。そこは同じような目的(または関心・興味)で集まったにもかかわらず、根本的には互いに異質さをはらんだ他者どうしのコミュニケーションで埋めつくされている。しかしだからこそ、そういった他者が空間を形成することで、個では発揮できない力を生成することができる。具体的にはこういった空間が増す・メディア並みの情報発信力・影響力を持つこともある。ここでは②にあげた「つながり機能」によってよりダイナミックな相互行為が行われ、拡張される。無為なネットワークは有為な空間へメタモルフォーゼしていく。

こんなふうにインターネットは現実の社会、現実のコミュニケーションに制約されながらも、現実の限界をぶっ壊しつつ、多元的な主体によって構成されている言論空間(日記などのもっと日常レベル・プライベートレベルまで落とすと、政治的な文脈で使われることの多い「言論」よりも、「意味空間」のほうがが適切か?)が、網目状に形成する。そしてその網目状のネットワークは局所的に特殊な空間を形成することによって、インターネットだけではなく、現実の世界にフィードバックを与える。

だけど問題はこういった個としてのサイトや、形態としてのネット、空間としてのスペース、どれをとっても「どういった文脈・価値観で語られるか」が重要なんだと思う。例えば、あくまで例えば自由主義なのか、共同体主義なのか、国家(粋)主義なのか、資本主義なのか、ポストモダニズムなのか。はたまた技術至上主義なのか。それはまた今度。